山陽オートレース場(山口県)
1965(昭40)年〜

県内にはかつて柳井オートレース場(山口県柳井市)があった
しかし
業績の不振と度重なる台風の被害のため、復旧の見通しが立たず、ついに昭和32年になって
休止することになった

当時財政状態が悪く財政の立て直しにつとめていた
山陽町に、この柳井オートの移転の話がもちあがり誘致を議決した

1957年(昭32)年10月6日:
柳井オート山陽オートに移転という形で休止(実質廃止)となる



レース場の設置をめぐって賛成と反対の両論が渦をまき、あわや
白紙撤回かと思われたが
関係者の血のにじむような努力と、オート事業が町財政と地元の観光開発に大きく貢献するであろうという
地元町民の深い理解が大きな力となりオートレース場の誘致が決定した


山陽振興株式会社がその移転先を物色していたところ
厚挟郡
山陽町が名乗りをあげ昭和33年9月、山陽町議会においてオートレース場の設置を議決し
建設地は埴生糸根松原海岸に決定した

昭和34年6月、松戸競輪の騒擾事件を契機に公営競技の存廃論が沸騰し

公営競技は新しい局面を迎えるに至り
オートレース場の移転問題も
棚上げの形となり
昭和37年4月に競走法が大改正されたため、移転問題は手続き上全く
振り出しに戻ってしまった


1963(昭38)年2月:建設予定地も小埴生に変更され、同年7月には更に現在の赤松に変更の上議決された

山陽本線埴生駅から徒歩で3分、16万平方メートルの広大な敷地に5億4,000万円の巨費を投じ
建設された
山陽オートレース場は、当時は西日本一と言われるほど豪華なスタンドに仕上がった
特に一般ファン席が一人椅子であったことは画期的なものであった
山口県当局は施行権の放棄表明し
山陽町だけで施行することとなり
山陽オートレース場”と呼称することになった
(土地、建物ともに
山陽小野田市で所有管理している)


1965年(昭40)年4月10日:
柳井オートに変わり山陽オートレース開設
舗装路:500m(
大井レース場と同じ舗装走路にした)、幅員:30m、曲率半径52m

監督官庁をはじめ各関係者、そして地元町民期待のうちに開場式典が挙行された
この日は初めてオートレースを見ようと集まったファンがスタンドにあふれ
式典終了後の全選手によるパレードに大歓声があがり
オートレース業界関係者の期待のもとに華々しくオープンした



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山口県山陽小野田市大字埴生字赤松700